幸せになること
前々からずっとなんでこれができないんだろう。とか、
これをするように。とか、
そんなことばかり考えていたけど
それだと一生、幸せになれないと思った。
「幸せになるには」とかでgoogle検索かけたら、
まあいろんなシガラミを振り切ったり、ポジティブな考え方があふれていた。
それでよかったんだと思ったね。
すごく、ありふれている言葉だったかもしれないし、
そういう考え方で常に生きている人にはなかなか共感はもらえないと思うけど
自分が不幸だっていう風に思っている自分にとっては
"どうすれば人生が幸せに、楽しくなるかを考える"ことが
楽しいんだという事に気づけたので
良い気付きでした。
幸せとは
最近、お金周りのことや仕事のこと恋愛のことでどうして行こうか考えていて、ふと立ち返って自分にとっての本当の幸せって何なんだろうという所を書いてみたい。
最初は単純にすべての要素を最大限、もしくは多量に持っていればよいという考え方だった。
つまり、質より量だった。
でも実際、量より質な生活ができていたほうが圧倒的に楽しいし、幸せを感じられるんじゃないかと思えるようになってきた。
友達とくだらない話をして、お酒を飲んで、愚痴を言ってわいわいする。
それが単純に生産性がないようで、ストレスを開放するという意味では一番生産性があったりする。
なんだろう。
相手を知って、相手に知られて、その上でまだ話したいっていう人と一緒にどっかに行っていろんな話をして、思い出を残したい。
それは、恋愛のように一人の女性に対して思うような感情に近いのかもしれないけど、一緒に感動したり一緒のものを食べたり、そういった昔友達としていたようなごく当たり前のことが最近はおざなりになっていた。
脈を広げて、表面上の会話をして、実際に相手のことをちゃんと理解していないことはざらだったし。
そういう友達との関係って、結局ぜんぜんどっか行ったりとかがなくて。
その場で楽しいだけじゃなくて、実際に濃い付き合いをしていきたいとおもう。
結果的に相手のために何かしたいって思えるような友人をちゃんと探したいし、気づいた瞬間から行動できるっていうのが人生の醍醐味だし。意識していこう
目標も立てていこう。
どこどこに行くとか。何が最終的に達成できていればよいのかとか。
博士の愛した数式
見ました。
事故で記憶が80分しか持たない博士と
その家政婦さんの人間味あふれる物語。
もともと数学が好きで、興味を持ってみた物語。
数学のきれいな側面も垣間見ることができた。
でもやっぱり、
つながりとは、"直線"であるという話が良い。
人と人のつながりは目に見えない。だからこそ、そこにお金や権力や記憶さえも超える想いが一つの端と端がない直線となり、永遠にあり続ける。
私はそんな直線を描けるような人と出会いたいと思う。
恋人でも友達でも、線分や半直線なんかで終わらない、そんな関係。
上っ面ではなく、その人の本質を知って、知られる。そんな関係。
友達は多いほうではないけど、ずっとまっすぐな切れ目のない直線が人生の軸の中で何本かあれば、そこに幸せがあるものなのかなと考えさせられるそんな物語。
絵
ふと,アートって何を持って価値を見出すのか考えてみた
例えば絵.
あくまで感覚的にだけど,自分でもかけそうみたいなものが何億で取引されていたりする.
一見落書きにしか見えないようなものも高価な値段で売買される.
じゃあ,果たして,その作者の名前を伏せたとき,購入者はその絵を買うのか.
自分がそんなお金持ちじゃないからわからないけど,もし自分がお金持ちだったらって考えると,まあ買わないって思う.ブランドを持っている自分を演出したくなるだろうから.
それはつまり,絵としての価値を見ていない場合となる.お金持ちの嗜好品というかね.たぶん自分も富裕層になってお金が余ったら同じことすると思うけど.
ただ,本当に価値を見出すにはブランドなんて絵に何ら関係ないもの.
では,何が本質的にその価値を見出すのか.
・細々とした才能
・絵描きの技術が優れている
・作品ができてから,年月を重ねることでしか表現が難しい劣化による美
・何かを思わせるようなメッセージ性
・その年代にしか視えない人の世をみて,それを描画した生の情報を写しているという価値
結局のところ,
絵の価値を見出すためには,
作品の技術はもちろんそうなんだけど,その絵のもつ"歴史"が大きな価値を見出すのかなと思った.
つまり,その人の一生を追って,色んな経験を積んで,その中で残していった歴史の一部を買うっていうところもあるんだろうなーって.または,その時にしか感じ得られない状態の描画.
絵だけでも考えれば,いろんな事が考えられる.
音楽,映画,本,伝統文化...
いろんな芸術と一括りにはできないような技術がそこにあって
その裏側には人が大金をだしても買いたいと思う技術や歴史がある.
人の世で自分で何かを作って売り出すようなニンゲンになるのであれば,
価値のある者を世に出していきたいのであれば,
こういうちょっとした歴史がどれだけ重要な価値を持っているのかも本当は考えて行かなきゃいけないのかなと思った.
新しいものばかりにとらわれるだけがものづくりではないからね.
温故知新は真理かなと.
生き方の最適解の一つ
自分は今何をしたいのか,
自分は何をした方がいいのか,
どういうことを学ぼうか,
どういう風にいろんなことを決めていくか,
そのモノサシは色々ある
人生の中で今何をすべきか考えるときの
"モノサシ"が一つ見つかった
それは,
"その時々にしかできないことをすること"
広く自己啓発書なんかでも言われていることだけど,
改めて自分の生き方を真剣に考えてみてそこに行き着いた.
というより,いろいろ考えたからこそようやくこの事実を受け止めることができた.
自己啓発書なんかでこの一節を読んだときは,そうだよねーって簡単にしか感じなかったけど,今はそうすべきだなって本気で感じる
今という時間は今しかなくて,そこにある制限的なものは年齢に関することだけじゃない.
今しかいられない環境.
"家族と笑ってご飯を食べられる"のは今だから大いに体験できるし,
"勉強を目一杯やること"も今だからできる.
"今の年齢の価値観で今後の人生を深く考えること"や
"周りの友達が今いる近さで話せるのは今しかない"というのも事実.
年が変われば,働く場所が変われば,家族の年齢や住まいや体験できること,見聞できる対象すべてが変わってくる.
つまりだ,,,
今しかできないことは,今やらないと今後すごくすごく後悔する可能性が高いということだ.
今,親から人生観だったり,専門的な知識だったりを聞けるのは簡単だけど,10,20年後にはちゃんと継承できるかわからない.
友達とだって,今は話せるけど,働く場所が変われば,その友達としかできなかった遊びや専門的な話や体験ができなくなる.
自分だって年を取れば,体が老いて,運動だってできない.
寝たきりになってからパラグライダーや乗馬なんてやろうと思ってもできない.
いましかyoutubeが見れないか?
いましかSNSができないか?
いましか"データ化されたものを"体験できないか?
それらを考えたときに,今しかできないことはもっとディジタルなものの外にあって,
必要な年齢で教養を得ることやまだできる状況下で周りに感謝して生きていくことのほうがよっぽど大事だなと思った.
後悔がないように生きたい.
高価なもの
高いものを買うことは,
それだけで人生の階段を上にあげてくれるものだと勝手に思っていた.
価値相応にクオリティーの高いものは,無駄が少ない.
無駄が少ない分,初期投資は高くても後々安物を使うより往々にして得をする.
ただし,それは"高価な状態"であり続けているという条件のもとでだ.
高価なものが,管理・保管方法の違いでいくらでも質の悪いものに成る
高価な靴をカビさせてしまったら,それだけで価値が下がる
高価な車に傷一つ入れば,価値が下がる
本質的な価値は変わらないが,こと人に見られて価値が高まりやすいものであればあるほど,管理のしかた次第で安価なものと遜色なくなる
高価なものを買うということは,高価な自分を演じさせてくれるものである反面,高価で有り続ける状態を維持する環境を自分で整えていかなくてはいけないということである.
継続的に磨いたり,整理したり,見栄えがいい状態にしないということは
結果的に"高価なものを買った意味がなくなる"のだと思う.
抱負
今年の目標は
"すぐやること"
もう,昨日一つ失敗をしてしまったから,昨日のは良き教訓として.
忘れるな!
いつでも,"切りの良いタイミング"があると思うな
何が何でもやりきらなきゃいけないときは,
自分の"信念"のもとに行動に移さないと何もできないから!
ある程度,空気を読む力も必要だし,なんならタイミングだって図れることが1人の大人のすることだけど,それにしがみついてチャンスを失うようなことはないように!
社会でそんなんばっかりだと,人に先を越されて発言されてどんどん自分のポジションが低くなるだけだから!
適当なところで折り合いをつけて,タイミング悪いときだってぐいぐい進めるような人じゃないと何も変われないから
日々を超えていこう